むこうがわ

今さらですが、あけましておめでとうございます。
ダイアリーでのごあいさつがまだ済んでいなかったのでお許しを。


30秒ドローイング」は、5日で365日達成となりました。
後半の半年で感じたことなどのまとめは、また別の機会に。
ハイク1.1になって若干、ペンの癖が違って(伸びとかにじみとか)ツールが変わったときの描けなさや、24時間以上ペンを待たなかったときの描けなさにかなり凹むので、もうしばらく続けていたいと思います。


うごメモは去年は結局、新年のご挨拶しか投稿できなかったし、今年の新年のご挨拶もしていないし…。
いろんな方のメモを拝見することも7月か8月くらいから、できなく(しなくなって)しまって申し訳ないという思いがありつつ、ひとつのことをはじめるとそればかりになってしまう情けない状態であります。




この内容はクリスマスイヴに下書きをしたものなのですが、「そう思う理由」などをきちんと伝わるようにしようとすると、どうしても固すぎたり、重すぎたりして、「年末の挨拶に…」「新年の挨拶に…」「365日の節目に…」と思いながらも今日になりました。


以前、ハイク2の方で少し似たようなことは書いた(今は消してしまった)のですが、いろんな方のハイク、ダイアリー、写真、絵などを拝見するときに「向こう側」をイメージするようにしています。


二度寝の誘惑を振り切っての「おはよう」のあいさつ
急いで玄関を飛び出していく姿
満員電車の車両が入ってくる駅のホームやそこにいる人々
電車を乗り過ごしたときの焦燥感やあきらめ
家族を送り出して家事もひと段落の「お母さん」
花や空の写真の写っていない部分にあるだろう空間
その瞬間を写真で切り取るためにこちらの存在を感じさせないように気配を押し殺す、あるいは意図的にこちらに意識を向けさせようとするカメラのこちら側にいる人
絵を描きながら納得のいかない線や色を何度も置き直す人
うまく伝わるように文章を推敲する人
書いた内容に反省する人、後悔する人


人間がイメージできることは、間接的な伝聞も含めた自身で経験のあることだけだろうから、実際とは完全に一致しないし、「正しくない」んだろうけど、「向こう側」に空間があって、人がいて、関係があって、感情があることをできるだけイメージしています。
できるだけ忘れないようにしています。



6月16日のダイアリーで「絵を描きながら『こんな風にできたらいいなぁ』と意識してるようなこと」に触れないままになってしまったのですが、できるかできないか、できているかどうかは別にして、描いた内容に小さなお話や感情を入れたいな、持たせたいなとずっと思っています。
今まで描いたものの全部がそうではないし、そう感じてもらえないものが多いこともわかっているつもりです。




ハイクで短編の文章を書かれる「nisinao」さんという方がいらっしゃいます。
お話がとてもステキなんです。
登場人物の関係性というか「距離」が想像していて楽しい。
互いに(行為や言い回しを)許容してる近さとか、ちょっと遠いけれど同じ場に居合わせてる関係の描写がステキなんです。
絵が、表情が、姿が浮かぶんですね。
ハイクをはじめて、描いた絵に星をいただいた流れで、文章を目にしたのが知るきっかけだったのですが、そのときに「『うごメモ』でこの文章に絵を添えられたらステキだろうなあ」と簡単に思ったものの、イメージしたものをそのまま描写できる技術も能力もなく「こういうものをきちんと描写できるようになりたい」というのが練習をはじめるきっかけのひとつだったり、上に書いたような意識を強くしたきっかけだったりします。


やはりハイクでのできごとですが、去年の春先に描いた絵の感想として、ある方から「人間を見ようとしているような」「優しい視点」ということをおっしゃっていただけたことがありました。
それまで描いたものの印象としておっしゃっていただけたので、とても嬉しかったです。
見てもらえてるということと、そんな風に感じてもらえてるということがとても嬉しかった。
正直なところ、自分の描いたもののどこに何にそう感じてもらえる部分があったのかわからなくて、しばらくその言葉に縛られるようなこともあったのですが、今でもこの言葉は描くものの羅針盤(コンパス)のひとつになっています。
今でも同じイメージでいられてるのかな…。




その他にもいただいた反応だったり、少しだけ交わした文章の中の言葉が、その人自身が、描くときの羅針盤(コンパス)だったりしています。
ハイクは本当にあったかいなあとか、ありがたいなあと思っています。
ほとんど絵しか描いてないのに反応もらえてりするとただただ感謝しかないです。




どうしてこんなことを強く意識しているのか、思っているか、拘るのかというと。
高校、大学では、まだ存在しない向こう側をイメージし、条件と擦りあわせて表現することを学んできました。
院に進んだ後に人間関係が原因でその分野からドロップアウトしてしまいました。
その事実は、トラウマとまでは言わないまでも、それまで積み上げてきたもの、それで飯を食うことを目的にしたものから逃げてしまったことの虚無感というか、挫折感というか、「自分には何もない」という思いだけが残り、それ以降の自分の多くを占めています。今でも。
知識としては積み上げたものは持っていても、今、実際にその分野で働いている人に比べればそれは「死んだままの(生きていない)もの」でしかないので劣等感でもあります。
「何を学んだ」とはっきりといえないのもそんな恥ずかしさがあるからです。


仕事の多くが「俺はこんなことやりたくてここにいるんじゃない」と一度は思うことなのかもしれませんが、「向こう側をイメージ」することに対してそんな経験をしていないからなのか、自分で言うのも恥ずかしいですが、純粋なままなのかもしれません。
また、積み上げることでできるようになる、成せてない何かが欲しいのかもしれません。




2010年だから2010枚のめがねこの絵を描くよに描いた一枚です。



小さなお話や感情をうまく表現できたということではないのですが…雪合戦のひとこまを描いたつもり。
この娘は左手で投げようとしています。
「左投げの娘」で終わるか、その先を想像してもらえるか…その前に気にするまでもないか…。
雪合戦で両方の手に雪をもって右を投げて、左から持ち替えて投げた方がたぶん目標には当たりやすいはずですが、それをしないほど「夢中」か「投げることに慣れていない」でそのままなのか。
この次の動作で、投げ慣れていない女の子がピョンと跳ねるような動作になって、まったく違う方向に投げてしまうようなところにかわいさを感じます。
投げる側、投げられる側でない視線(アングル)から、夢中なのか、かわいさを見せる女の子なのか、そんな娘に視線を向ける、奪われる「誰か」の感情はどんなものだろうか。
その「誰か」や女の子自身に見た人が自身を投影できるだろうか、過去の似たような思い出を引っ張り出せるだろうか。
そんなことばかり考えています。


はじめにカッチリしたイメージがあるわけでなく、描きながら
「こんな表情」
「こんな髪型」
「こんな性格」
「こんなシチュエーション」
「こんな服装」
「こんな性格の娘はこんなシチュエーションでこんな表情はしないな」
グルグル回っていきます。
はじめから狙って描けるようになりたいとは思うものの道は遠いです。


描いた人間のイメージしたものと一致しなくても、見てくれた人が絵の中「向こう側」を想像したくなるような、してくれるような絵が描けるようになりたいです。
自分でその続きを描いてみたくなるような、そんな絵が描きたいです。描けるようになりたいです。




去年の目標(テーマ)は「もっとかわいく(魅力的に)」、「もっとていねいに」だったのですが、今年もそれを目標にさらにもう少し色塗りを上手になりたいです。
できることなら単語や擬音ひとつで表現、形容できるような色の塗り方ができないものだろうか…。


そんなこんなですが、本年もよろしくお願いいたします。