多視点

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人はそれぞれ違いがあります。


その人の「今」は、それまでの積み重ねたもの、そのものだと思っています。
「積み重ね」という表現が能動的な努力や精進というイメージだけを与えてしまうならば、「降り積もり」でも良いかもしれません。
その人の「今」は、それまでに降り積もったもの、そのものだと思っています。


ひとつの言葉が持つ意味合いも人によって異なります。
どんなシチュエーションで使うか、どんな言い回しか、どんなタイミングか。
言葉の幅の違いかもしれない、角度かもしれない、それまでのその人の降り積りによる高低の違いかもしれない。
その言葉の意味するものを実際に「手にしたことがあるか」、「手にしたことがないか」の根本の違いかもしれない。




何か事に臨むにあたって、ひとつの言葉を用いて表されたスタンスがあったとして――


一見、相容れないかのような言葉で表現できてしまう別のスタンスがあったときに――


一方が、もう一方を完全に否定してしまうようなケースばかりだろうか、なんてことを考えています。
どちらかがどちらかを内包している、どちらかに内包されているような場合がないだろうかと。


ひとつの言葉で表されたものを下地として、さらに上塗りを重ねていくことを模索するようなスタンスとか。
ひとつの言葉で表されたものを到達点、通過点として目指してしっかりとした下地作りを模索するようなスタンスとか。




わたしは今までに、「こんなことが(苦手で)できない」とか「こんなことをやってみたい」ということを表に出したことは何度かありますが、自らのスタンスをはっきりと表したり、看板として常に掲げ続けるようなことはあまり得意ではありません。
はっきりとしたスタンスがあるならば、あったとしたら、それを「黙って、秘めて、持って、やればいい」。




仮定の話です。
もし、ある場所で、傍から見た人に「わたしのスタンスとして映ったもの」があって、わたしにはそれを通すしか術がなくて(知らなくて)、その人が自らのスタンスを貫くにあたって、わたしのそれが障害となることがあるならば――


わたしはその場所から少し距離をとることを進んで選べます。
自制とか犠牲とかそんな高尚なものでなく、「人の違い(人による違い)」を簡単に示せる方法だと思うのです。
それは互いに「降り積る」のだから、こんなに良いことはないような気がします。
どちらが正しい、どちらが間違っている、そんな話でもありません。


そのスタンスとスタンスのように映ったものに「楽しさ」という共通項がある、どちらかが内包している、されているならば、なおさら、そうすることが望ましいように思います。




最後の部分は攻撃的なようにも思われるかもしれませんが、そういう意図はありませんので、お許しください。
わたしは「まだ持っていません」。
そのことをお伝えできればと思います。




ひとつの「つぶやき」を切欠に、ずっとモヤモヤと抱えていたものをこんな風に
整理することができました。
ありがとうございました。




メリークリスマス


良いお年を